朝は、いつからか味がしなくなっていた。
カーテンの隙間から差し込む光も、
スマホのアラーム音も、
全部どこか遠くで鳴っているみたいだった。
体は起きているのに、
心だけが布団の奥に沈んだまま動かない。
「行かなきゃ」
その一言が、鉛みたいに重い。
スーツを着る。
ネクタイを締める。
鏡に映る自分はちゃんと社会人なのに、
中身は空っぽになっていく感覚があった。
新卒1年目。
夢だったはずの社会人生活。
でも気づけば、
通勤電車の窓に映る自分に向かって、「どこで間違えたんだろう」と問いかけていた。
あの頃の僕は、
うつになるなんて思ってもいなかった。
ただ、少しずつ、
確実に、
心がすり減っていただけだった。
② うつになるまでの過程
社会人になった春、
僕は「ちゃんとやろう」と思っていた。
誰よりも早く出社して、
言われたことはメモを取り、
怒られても「ありがとうございます」と言った。
できない自分を見せるのが怖かった。
会議で意見を求められるたび、
頭が真っ白になった。
喉が締まる。
何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
帰り道、
その日の失敗を何度も再生する。
「あのとき、ああ言えばよかった」
「なんであんな簡単なことができないんだ」
家に着いても反省会は終わらない。
気づけば、
眠る前の最後の感情も「後悔」になっていた。
少しずつ、
朝起きるのがつらくなった。
最初は「疲れているだけ」だと思った。
でも、休日になっても回復しない。
楽しかったはずのことが、
何も楽しくなくなった。
笑い方を忘れていく感覚。
それでも、
「社会人なんだから」「みんな耐えている」と
自分を押し込めた。
限界は、
音もなく近づいていた。
そしてある朝、
体が、動かなくなった。
③どん底の思考
賃貸管理の仕事は、
「住まい」を扱う仕事だった。
本来なら、誰かの生活を支える仕事のはずだった。
でも僕の一日は、
鳴り止まない電話から始まる。
「水が出ない」
「騒音がひどい」
「対応が遅い」
ひとつ解決しても、
また新しいクレームが入る。
終わった、と思った瞬間に、
次の“火種”が届く。
まるで、
底の抜けたバケツに水を注ぎ続けているみたいだった。
どれだけ頑張っても、
達成感がない。
「ありがとう」よりも
「まだですか?」の方が多い毎日。
いつしか僕は、
電話の着信音が怖くなっていた。
スマホが震えるたびに、
心臓まで一緒に跳ねる。
帰宅しても、
頭の中ではクレーム対応の続きをしている。
「自分の説明が悪かったのかもしれない」
「もっと早く動けたんじゃないか」
「向いてないんじゃないか」
気づけば、
仕事の失敗が“自分の価値”と直結していた。
クレームが入るたびに、
自分が否定されている気がした。
周りは普通に働いている。
同期は成果を出している。
それなのに自分だけ、
毎日削れていく。
「これくらいで弱音を吐くなんて甘い」
「1年目なんだから当たり前」
そうやって自分を責め続けた。
でも本当は、
もうとっくに限界を超えていた。
心がすり減る音は、
誰にも聞こえない。
自分にすら、
最初は気づけなかった。
④やめる決断の瞬間
夜が、いちばん長かった。
布団に入っても眠れない。
目を閉じると、昼間の電話の着信音が鳴る。
クレームの声が、
頭の中で何度も再生される。
時計の針だけが進んでいく。
「明日も仕事だ」
そう思うたびに、
胸の奥がざわついた。
結局、ほとんど眠れないまま朝になる日が増えた。
これはさすがにおかしい、と思って
病院に行った。
診察室で医師に
「抑うつ状態です」と言われたとき、
なぜか少しだけ安心した。
ああ、やっぱり自分は壊れかけていたんだ、と。
それでも、休職はしなかった。
いや、できなかった。
「ここで止まったら終わりだ」
どこかでそう思っていた。
転機は、ある夜だった。
何気なく観た映画の中で、
登場人物が言った。
「自分の好きに生きろ」
たったそれだけの言葉。
でも、その一言が、
胸の奥のどこかに刺さった。
今までずっと、
「こうあるべき」で生きてきた。
新卒だから耐えるべき。
社会人だから弱音を吐くべきじゃない。
親を安心させるべき。
“べき”ばかりで、
“好き”を置き去りにしていた。
もし、
本当に自分の好きに生きていいなら?
その問いを、
初めて自分に投げかけた夜だった。
辞めるのは逃げだと思っていた。
でもあの瞬間だけは、
「これは逃げじゃない。選択だ」
そう思えた。
それが、
僕が会社を辞めると決めた瞬間だった。
⑤その後
会社を辞めた日、
世界は何も変わらなかった。
駅前のコンビニも、
朝のニュースも、
昨日と同じ顔をしていた。
変わったのは、
肩の重さだった。
未来への不安はあった。
正直、めちゃくちゃ怖かった。
でも、
「今日クレームが来るかもしれない」という恐怖は、
もうなかった。
それだけで、
呼吸が少し深くなった。
転職活動は順調とは言えなかった。
書類で落ちることもあったし、
面接で言葉に詰まることもあった。
それでも、不思議と
前より自分を責めなくなっていた。
あの一年で、
僕は「向いていない環境がある」ことを知った。
そしてそれは、
「自分がダメ」という意味ではないと、
ようやく理解した。
今、塾長として働いている。
生徒が「わからない」と言ったとき、
僕はあの頃の自分を思い出す。
できない自分を責めて、
追い込まれていった日々。
だからこそ思う。
人は、
環境が変わるだけで、こんなにも違う。
クレームに追われていた僕と、
生徒の成長を一緒に喜んでいる今の僕は、
同じ人間だ。
変わったのは能力じゃない。
立つ場所だった。
あの夜、
映画を見て感じた小さな決意は、
間違っていなかった。
ヒーローみたいに世界は救えないけど、
自分の人生なら、少しずつ救える。
そうやって、
僕はもう一度、歩き始めた。
⑥今しんどいあなたへ
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございます。
もし今、
朝が怖い人がいるなら。
会社の最寄り駅で足が止まる人がいるなら。
「自分が弱いだけなんじゃないか」と
自分を責め続けている人がいるなら、
どうか覚えていてほしい。
あなたが弱いわけじゃない。
ただ、今いる環境が
あなたに合っていないだけかもしれない。
僕は、あの頃
「辞めたら終わり」だと思っていた。
でも実際は、
辞めたことが“始まり”だった。
逃げることと、
自分を守ることは違う。
立ち止まることと、
負けることも違う。
人生は思っているより長い。
そして、やり直しは何度でもきく。
ヒーローじゃなくていい。
強くなくていい。
ただ、自分の人生を
自分の足で歩ければ、それでいい。
もし今、しんどいなら、
環境を変えるという選択肢もある。
あなたの人生は、
会社の評価で決まらない。
あなたは、
思っているより、ちゃんと価値がある。
この記事が、
ほんの少しでもあなたの呼吸を軽くできたなら、
僕はそれだけで十分です。


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